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第1回(後編):針供養に見るものづくりの神々〜日本人が「もの」に魂が宿ると考えるワケ〜

針供養に見るものづくりの神々〜日本人が「もの」に魂が宿ると考えるワケ〜前編では、針供養からその信仰対象の神々について見てきました。後編では、職人集団の信仰と職人に対する敬意と畏怖、職人が作り出す「もの」とは何か?について迫ります。

(3)職人集団の信仰と職人に対する敬意と畏怖 

「ものづくり」には、なぜ信仰が必要だったのか?

編集長:前編でのお話では、製鉄という「ものづくり」の現場には、多くの神々が関わり、それに対する信仰があるということでした。それにしても、このような信仰はなぜ生まれたのでしょうか?
 
奈良:いくつかの可能性が考えられます。まず、「ものづくり」は自然の恵みをもとにしているということです。製鉄の例でいえば、砂鉄、木炭、風、火など、すべてが自然からの恵みによるものです。特に風などは自分たちの力ではおこすことができないものです。
 
三田村先生の論文でも言及されていたように、製鉄には火を起こすために、冬の農閑期の11月から12月にかけて吹く強い季節風がどうしても必要だったわけですが、ふいごが発明されるまでは、そのような自然の風をあてにするしかありませんでした。荒々しい神々を祀り鎮めて、自分たちに必要な恵みとして風をもたらしてくれるよう祈願したのだと考えられます。
 
そしてもう一つが、人智を超えるものに対する畏れです。(前編で)製鉄の現場のカナヤゴ(金屋子)は死の穢れを嫌わない神だとお話ししましたが、人柱を立てることによって、技術を促進させた神だと考えられています。(『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社) 「金屋子神」 より) 製鉄の現場では、職人たちにとって自分たちの人智を超える事態がおきたとき、人命にかかわる事故がおきる。そのようなことがないよう、より高い技術を獲得し、安全に製鉄の仕事をするために、人柱を立てて、神を鎮めておく必要があったのではないでしょうか。
 
編集長:人柱と聞くとギョッとしますが、現代の私たち以上に昔の人たちは、自然や人智を超えたものを畏れていたということですね。それを鎮めるための信仰であったと。

職人への敬意と畏怖

奈良:そうです。そして最後は、三田村先生が別の著書でもお書きになれていましたが職業や身分の正統性を保障する権威としての信仰です。その著書によると、製鉄や金属の職業集団には、金山様の信仰などがあったように、木工・建築業者には聖徳太子信仰、染色業者には愛染明王信仰、木地屋に惟喬親王(これたかしんのう)と山の神の信仰があったそうです。
 
このようなものづくりによる職業集団は、必要な材料や自然の力を求めて諸国を遍歴しなければなりませんでした。稲作を中心とした田畑を基本とする定住型の村落にとっては、遍歴型の職業集団は、あずかり知らない知識や技術をもたらしてくれる人たちであると同時に、村落の外からやってきた “よそ者” という扱いだったそうです。そのようななかで自分たちの存在意義を示すためには、天皇家やそれに連なる高貴な人たち、あるいは神仏への信仰と繋がりを示すことで、社会的な地位を示そうとしたということです。
 
編集長:なるほど。今、遍歴型の職人集団が、自分たちにはあずかり知らない知識や技術を持っている人たちであると同時に、定住型の村落の人にとっては、村落の外からやってきた “よそ者” という扱いだったというお話しがありました。
 
村落の人たちには、ものづくり職人たちへの敬意や憧れがあった。その一方で、見たこともない高い技術を持つ自分たちとは違う人たちという、畏れというか畏怖のような感情があったということですね。
 
奈良:そうだと思います。敬意や憧れというのは現代の私たちの感情にもたしかに伝わっていると思います。

(4)職人が作り出す「もの」とは何か?

編集長:ものづくり職人への敬意と畏怖というお話しのなかで思ったのですが、そもそも「ものづくり」とは日本人にとってどのような行為なのでしょうか?少し哲学的というか抽象的な話しになってしまうのですが。
 
奈良:そうですね、「ものづくり」を考える前に、「もの」とは何かを考えてみたいと思います。便宜的に、ジャパンナレッジという事典・辞典類の有料データベースにある『世界大百科事典』で「もの」という項目を引いてみたのですが、次のようなことが記載されていました。

①  知覚しうる個々の物体をさし,同時により抽象的・包括的な物象全体の称。
②  経験の対象である物事・事がらから,それらの蓄積としての慣習,経験より帰納される道理・筋道を意味する。「そういうものなんですよ・・・」
③  形式名詞として感嘆・希望・強調を含意する。「ものすごい・・・」
④  接頭語として理非にかかわらぬ気分・状態を示す。「もの悲しい・・」
⑤  人間については相手を客体視・蔑視する。「河原もの・・・」
⑥  自身を卑下する意味を添える。「ひとりもの・・・」
⑦  反対に畏敬すべき霊威・鬼神も〈もの〉と呼ばれた。「物の怪」など

『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)「もの」の項を引用し、奈良にて加筆編集した

このなかでも特に③から⑦に注目してみると、共通することとして、人間にははかりしれないか“何か”を表現する際に使われる言葉であるという印象を受けます。
 
③と④は、うまく言い表すことができない程度の大きい“何か”、あるいは感覚でしかとらえられない“何か”です。
 
⑤は共同体の埒外(らちがい)にある“何か”、⑥は自分の力ではどうすることもできない“何か”、⑦は人智をこえた “何か”、を「もの」と呼んだと考えられます。特に⑤と⑦はさきほど「職人集団の信仰と職人に対する敬意と畏怖」のところでもお話ししたことと、重なります。
 
手や身体を動かし、さまざまな材料と高度な技術を使ってまったく別の何かをつくり出すという職人の行為が、西洋でいうところの錬金術というか魔法のような「何か」に人々には映った。つまり、そのような職人たちの手によってつくり出されたのは、単なる物質ではなく、人智を超えた畏怖すべき“何か”だったと考えることができるのではないでしょうか。

(5)「ものづくり」とは、「もの」に魂をこめること

「むすひ」「むすび」の神からみる「ものづくり」

編集長:「もの」にそのような意味があると捉えると、これまでのお話し、神々への信仰、職人への敬意と畏怖などがつながってきますね。
 
奈良:はい、そう思います。このようなことを踏まえて、最後に「ものづくり」そのものについて、考えてみたいと思います。以前、別のところでも書いたのですが、「ものづくり」とは「もの」に魂を込める行為だと考えています。そのときに書いたことを、かなりかいつまんでお話ししすると、次のようになります。

『古事記』の冒頭「天地(あめつち)初めて発(あらは)れし時」に、タカミムスヒとカムムスヒという神が現れます。
 
「物のあはれ」論などでも有名な江戸時代の国学者本居宣長(もとおりのりなが)は、この神の名前にある「ムスヒ」の「ムス」は、苔が生す(むす)、生む(うむ)、産む(うぶす)など生成をあらわす語であり、「ヒ」は霊力をあらわす語であると考えました。「ムスヒ」は『古事記』の中でこれからおきようとしている、神生みや国土づくり、国づくりなどの万物生成を司る神威(エネルギー)だと考えたのです。(『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)「霊産(むすび)」)

この宣長の説を基に、民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)は、「むすひ」の神を「むすび」の神であると考えました。「掬ぶ(むすぶ)」あるいは「水を掬う(すくう)」という言葉があるように、「むすび」とは、両手を合わせて外に洩れ出ないようにする行為だと信じられていました。「むすび」をそのように考えることで、万物生成を司る「むすひ」の神に、魂を植え付ける力を見出そうとしたのです。(「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として 」
 
宣長や折口のこれらの説は、比較的世の中に広まっていますが、近年、専門家の間ではさまざまな方面から批判・再検討されています。(『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)「霊産(むすび)」)しかし、私自身は、日本人の手で何かをつるく行為や「ものづくり」に対する思いを説明するのに有効なのではないかと考えています。
 
これをさきほどお話しした、職人がつくった「もの」を、人智を超えた畏怖すべき“何か”と捉えることと、すぐさま同列に扱うことはできないのかもしれませんが、「もの」や「ものづくり」に対する多様な考え方がありながらも、信仰、敬意と畏怖、魂といったところで響きあっているのではないかと思うのです。

「ものづくり」を、俯瞰して意味づけする

編集長:「もの」や「ものづくり」は、単なる物質や物質をつくり出す行為ではなく、精神性の高い行為だったということですね。そのような精神は、現代の私たちのも受け継がれている気がします。日本を「ものづくり大国」といった時期がありましたが、そのような感情の延長にあると感じました。
 
そして重要なのは、「ものづくり」を巨視的に、俯瞰して捉えるということなのかもしれません。レンガ積み職人の話しがあります。レンガ積み職人に何をしているのかを問うと、ある職人は「レンガを積んでいる」といいました。ある職人は「教会をつくっている」といいました。ある職人は「人々の祈りの場、精神的な営みをする場」をつくっていると言いました。
 
目の前の作業に真摯に向き合うことは大切ですが、それと同時に、その作業にどのような意味や社会的な価値があるのかを、少し高い視座から眺めてみることで、日本の「ものづくり」も新たな展開が見えてくるのかもしれません
 
奈良:本当にそうですね。それは「ものづくり」だけではなく、日本の産業全体、私たちの仕事そのものに、そういう時間が必要ということなのかもしれません。

あとがき

針供養の話から、鉄の歴史、そして鉄に関わる信仰、「もの」とは、「ものづくり」とは、という流れで見てきました。日本の歴史は製鉄は切っても切り離せない関係にあり、その歴史を通して私たちは「ものづくりは人智を超えた畏敬なもの」としてとらえてきていたことを知りました。

次回は、鉄の歴史についてさらに見ていきます。鉄に対する職業集団、そこから近代の製鉄産業への流れを議論していきます。


第1回の前編はこちら
針供養に見るものづくりの神々〜日本人が「もの」に魂が宿ると考えるワケ〜前編

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