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自社商品開発は僕らしい仕事 もっと楽しく意欲的に仕事がしたい

町工場が挑むB2Cとは、これまでB2B中心だった町工場(中小製造業)が、自社製品を作り、一般消費者に向けて販売すること。様々な理由からB2Cに注目し、製品開発や販売方法、ブランディングなど新たに挑戦している方々を取材しました。これからB2Cに取り組もうとしている製造業の方や、行き詰まり感や課題を感じている方々のヒントになれば幸いです。詳しくは以下の記事をご覧ください。(ものづくり新聞 記者 中野涼奈)

植木製作所 植木正志さん

埼玉県川口市にある植木製作所は、主にダイキャスト製品のマシニング加工を行なっています。今回は代表の植木正志さんにお話を伺いました。

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植木製作所の前身である植木加工所は、植木さんのお父様が東京都荒川区西日暮里で創業しました。当時は和菓子製作に使われる木型を製造していたそうです。

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「最初は栃木県矢板市で和菓子製作をしていました。その時に見よう見まねで和菓子の木型も作っていたようです。それを見たダイキャスト製品を作っている方々から“その技術があればダイキャスト製品の加工できるよ。そういう加工をやってくれる人いないんだよね。”と声をかけられ、1960年に植木加工所としてダイキャスト製品の加工を始めました。6年後、現在の埼玉県川口市(当時は鳩ヶ谷市)に移転し、植木製作所へ改名しました。」

創業当時の事業内容は蹴っ飛ばし(蹴飛ばし)と呼ばれるプレス加工、穴加工、タップ加工などを行なっていました。蹴っ飛ばしとはフットプレスという機械を使用し、足で蹴り飛ばすようにしてペダルを踏み込みプレスする加工法のことです。人間の踏み込む力が動力のため、それほど大きな力を必要としない加工に適しています。

「創業当時は機械も小さいものが多く、ネジのタップを切ったりテレビのチャンネルのバリ取りなどをしていました。母や父の姉も手伝ったり、規模を大きくしたりということもしていましたが、父は基本的に誰からも教わらず自分でやり方を見つけて仕事をしていました。」

寡黙だったというお父様の仕事中の姿は印象に残っているといいます。

仕事している姿はよく見ていて尊敬していました。小学生の頃に版画で仕事をしている父の姿を彫ったことがあります。父は手作業でプレス型を作るのが上手で、当時は結構重宝された技術だったようです。
でも、父を見ていて基本的な技術や知識はきちんと学んだ方がいいなと感じたこともあります。6F(ロクエフ)という立方体の6面全てを平らに加工したプレートがあるんですが、父はそういうものがあるとは知らず平らではない板を何とか組み上げて治具にしていました。父はそれが技術だと思っていたようですが、今思えばそんなことはありません。自己流である程度の技術を身に付けることはできると思いますが、更に技術を向上させるには基本を学ぶ必要があると感じました。」

バンドでは作詞作曲も

埼玉県に移転し植木製作所としてスタートを切った1966年、植木さんは誕生しました。幼い頃は絵が得意だったといいます。

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*植木さんが描いた絵画

「絵が好きで描くのが得意でした。子供の頃は“ジャイアントロボ”という特撮テレビ番組が好きで、毎週テレビの前に座って描いていました。でも、学校の先生や親からも“絵では将来食べていけない”と言われて徐々にやってもしょうがないかという気持ちになり、のめり込まなくなっていきました。デザイン学校に行きたいと思ったこともありましたが、親に反対されたこともあり工業高校に進学しました。」

大学に入学するにあたり、自分の意志で進学するからには学費も自分で出したいと考えた植木さん。高校生のうちから新聞配達のアルバイトをし、大学では新聞奨学生となり住み込みで働きながら大学生活を送ったそうです。

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「工業系の大学に進学しましたが、その時は将来家業を継ぐということは全く考えていませんでした。すぐに社会に出るというのがあまりイメージできなかったのだと思います。高校生の頃からバンドをやっていて、当時日本でも流行の兆しのあったインディーズ・パンク・ムーブメントに触発され、大学に通いながらバンド活動をしていました。当時からロックやパンク、ニューウェイブといったジャンルのバンドが好きで自分のバンドではギター、ボーカルを担当しながら、作詞作曲もしていました。

でも2年ほどで大学を辞めることになりました。家業の手伝いを少しした時期もあったんですが、元々家を出たかったものですからすぐに油圧ポンプ機器製造メーカーに就職しました。」

植木さんはご自身を“じっくり時間をかけて考え、深いところまで到達することができる“と分析しておられました。

「学生時代も就職してからも、じっくり考えて理解するという姿勢は一貫していると思います。会社に勤めていた頃はそこがなかなか難しくて、素早く理解できる同期との違いを感じた場面もありました。でも、時間をかけて理解しようとするので人より深いところまで到達できる自信はあります。一般企業に勤めていたらすぐには仕事ができなくてつまづくと思いますが、今は自営業なのでそこは自分に合った働き方ができていると思います。」

家業に入る決意

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*共に働く息子さん

家業とは違う場所で働こうと考えていた植木さんですが、油圧ポンプ機器製造メーカーに就職してから2年ほど経った頃、その考えが変化する出来事がありました。

「その頃父親が体調を崩し、入退院を繰り返すようになってしまいました。病院の先生から1日中誰かが付き添う必要があると言われ、そこで仕事を辞めて家に戻ろうと決めました。加工の仕事に関しては全くの素人でしたが、仕事がどんどん入ってくるのでやるしかないという感じでした。必死でしたね。」

1988年家業である植木製作所に入社し、何もかもわからない中必死に仕事をしたといいます。しかし、徐々に仕事が減ってきてしまったというのです。

「世の中はバブルなのに仕事が減っていきました。いわゆるグローバリゼーションがどんどん広がっていた時代で、私たちがしてきた穴加工やタップ加工はコスト削減を求めて中国をはじめとする諸外国で生産するようになりました。その状況に父も母もストレスを感じていたと思います。
父の面倒を見つつも仕事をしていましたが、1992年に父が亡くなり私が植木製作所の代表を務めることになりました。

仕事は父の様子を思い出しながら見よう見まねでやっていました。手先が器用だったのでできることもありましたが、基礎がないのでそれ以上の技術はなかなか身に付かずにいました。更に、父はアナログな機械ばかり使っていたのでデジタルの機械がなく、導入も反対されていました。でも、なんとかしないといけないと思い、営業を始めました。」

マシニングセンターが並ぶ光景に圧倒された

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営業の甲斐があり、ある加工業社の下請け仕事を受注できるようになったといいます。それ以降も地道な営業を続け、人伝てである工場に見学に行く機会があり、そこで植木さんは衝撃を受けました。

「見学に行くまではあまり興味がなかったのですが、工場に入るとマシニングセンターが2台、NC旋盤が6台くらいがずらっと並んで加工している光景を目にしました。その光景を見て、こんな世界があるのかとカルチャーショックを受けました。自分も同じような機械が欲しいという思いが高まりましたが、価格が高くてすぐに導入できず色々な方に中古で譲ってくれないかと話をしていました。すると縁があり2007年にマシニングセンター1号機を導入することができました。今思えば相場よりもかなり高い値段で200万円借金して購入しましたが、それがスタートです。」

3年後の2010年には2号機、3号機を導入しました。しかし導入したからといってすぐに受注できるわけでなく、興味を持ってくれる方はいても仕事に繋がることはあまりなかったといいます。

「最初はなかなか仕事がなかったのですが、ある会社からサーキュラーテーブルというマシニングセンターのテーブルを回転させながら加工する仕事はできないかと声をかけられました。試行錯誤すると自分たちでできることがわかり、仕事を引き受けました。単価は安いものでしたが、その会社がたくさん仕事を出してくれたため忙しくてまだ学生だった子供たちに手伝ってもらいながら加工していました。でもそれも長くは続かず、2年ほど経った時にその会社から受注していた仕事が一気にゼロになってしまいました。

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植木製作所に出していた加工を引き上げ、自社で加工することになったと告げられたといいます。月100万円ほど売上のあった仕事が突然なくなり、当然落ち込んだとおっしゃっていましたが、植木さんはここで“新しい機械を導入しよう”と考えたといいます。

「それまでに導入した3台のマシニングセンターは中古の機械でした。私としては中古でもきちんと扱うことで精度の高い加工ができるのだから問題ないと思っていたのですが、外部の方々からすると古いというだけで正直少し評価が下がるような感じがしました。苦しい状況ではありましたが、打開するには何かアクションを起こさなければと思ったので思い切って新品のマシニングセンターを導入しました。

導入後、興味を示してくれた会社から引き合いがあり、現在も取引が続いているといいます。

「4号機号導入後すぐに興味を持ってくれて、工場見学に行くとうちと変わらない人数なのにマシニングセンターが6台あり、またもやカルチャーショックを受けました。私もこんな工場にしたいと思い、機械の仕様など真似ているところもあります。
マシニングセンターを導入してからは仕事の幅が増えましたが、父の頃からやっていたタップ加工だけの仕事もここ10年くらいで同業者が会社を畳んでしまっていることもあり、今でも結構受注はあります。」

0.5ミリの名刺入れに加工を施す

植木さんは2020年3月にTwitterを始め、5月に好きなバンド名を刻印した名刺入れを投稿しました。これがB2C向け製品開発の始まりです。

「お遊びで投稿したものでしたが、色々な方から反応を貰えました。そんなことは今までなかったし、自分がカッコイイと思ったものに共感してもらえて嬉しかったことを覚えています。このツイートがきっかけとなり、株式会社パーツ精工開発事業部の西川さんがデザインしたもので私が名刺入れを作るという取り組みを始めました。これが想像以上に難しくて、バリが沢山出てしまったり刃物もなかなか良いのが見つからず、子供たちと試行錯誤しながら4ヶ月かけて完成しました。名刺入れの厚みが0.5ミリしかないので、ただクランプ(固定)したら歪んでしまいます。こんなに薄いプレートに切削で柄を刻むというところがカッコイイなと思うのです。」

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*植木さんが好きなバンド「スージー&ザ・バンシーズ」の楽曲「Dizzy」からもらったというブランド名。「ZZ」もDizzyからとったロゴマーク。

その後、自社商品開発や外部との交流に関心を持つようになり、2021年2月と10月に開催された東京インターナショナル・ギフト・ショーへ町工場プロダクツの一員として出展することを決意します。(町工場プロダクツとは、ものづくりコミュニティ“MAKERS LINK”から派生した、自社製品の開発/発表/販売を通じ、町工場の活性化を目的とした活動チーム)

「その時は名刺入れに彫刻したものがあるくらいで自社商品と呼べるものはありませんでしたが、他にも似たような状況の会社さんがあり心強かったので私も出展することにしました。文化祭のような感覚でとても面白くて、色々な立場の方と交流できたのはとても刺激になりました。出展したことは正解だったと思います。」

出展したことで情報共有したりアドバイスをもらうことができる仲間ができたことがなにより良かったといいます。

「製品の価格もどのくらいに設定したら良いかわからないくらいでした。デザイン面でご協力いただいているデザイナーの眞鍋さんに製品価格についてアドバイスをもらったり、一緒に出展している方々にECサイトの作り方を教えてもらったりしました。私も同じようにB2C向けに販売してみたいと考えている知り合いに声を掛けて誘ったりしました。繋がりは元々ありましたが、こうやって見える形で繋がると良いもんだなと思いましたね。」

製品開発は“僕らしい”仕事

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今後はB2C向け製品を売上の柱の一つにしていきたいと考えています。

「本業の仕事はお客様の状況によっては、過去に受注がなくなった経験があったようにいつ仕事がなくなってしまうかわからないというのは着いて回ります。今のうちからB2C向け製品を育てていき、売上の柱の一つにすることができたら強みになるだろうと思います。

それにB2C向けの製品開発の仕事は“僕らしい”仕事だと思っています。元々絵やデザインが好きだったこともあり、加工屋なりのデザインを表現することが楽しいです。私の好きなロックテイストやヴィンテージ要素も入れて楽しみながら作り、誰かが気に入ってくれれば良いなと思います。」

最後に植木さんの今後の目標を伺いました。

「これまで仕事は厳しくこなしていくものというイメージがありました。仕事が大変という事実は変わっていませんが、もっと楽しく意欲的に仕事をするためにできることは沢山あるとTwitterを通した交流の中で学びました。

横の繋がりを大事にしながら、自ら発信したり色んな方々との交流をしていけばもっと良い仕事ができるのではないかと思います。今現在一緒に働いている次男にもそこは伝えていきたいと思っているんです。次男も絵を描くのは得意なので、その得意分野とものづくりの楽しさが繋がれば良いなと思っています。」

植木製作所
所在地 埼玉県川口市里1545-4
会社HP 植木製作所


編集後記

「製品開発は僕らしい仕事です」という言葉が印象的でした。自分らしいと思える仕事に取り組む姿は、一緒に働くお子さんにも伝わっていると感じます。